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ベトナム軍の侵攻と 「カンボジア問 題」の発生(1979~1991年)

皆様! ススデェイ(こんにちは)。

私はカンボジア日本語ガイドのブンキァンと申します。 毎日、カンボジア旅行に来た日本人の皆様を案内しています。私のツアーは初めての旅行でも、一人旅行でも、家族旅行でも、団体でも安心です。

今日はベトナム軍の侵攻と 「カンボジア問 題」の発生(1979~1991年)について一部説明したいと思います。

 

1979年1月7日、ベトナム軍に支援された 「カンプチア救国民族統一戦線」は、プノンペン を「解放」した。その直後、人民革命評議会議長 ヘン・サムリンが 「カンプチア人民共和国」(へ ン・サムリン政権)の樹立を宣言しました。

一方、タイ国境に逃れた民主カンプチア勢力 は、ゲリラ活動を展開しつつ、1982年7月には、 ソン・サン派、シアヌーク派とともに、反ベトナ ムの「民主カンプチア連合政府三派」を発足さ せ、ヘン・サムリン政権に対抗した。このため、 1982年以降のカンボジアには、タイ国境にあっ て中国や ASEAN (アセアン) などに支援された 民主カンプチア連合政府三派と、ソ連やベトナム などに支援されながらカンボジア全土を実効支配するカンプチア人民共和国というふたつの「国 家」が併存することとなりました。

1980 年代全体を通して、両政権による内戦は 長期化し、二重政権状態が継続されます。「カンボ ジア問題」は、東西対立に加えて、社会主義国家 間の対立が内戦の原因を複雑にし、さらに紛争解 決を困難にしていました。

 

 1980 年代、ベトナム軍の駐留に反発した西側 諸国やASEAN などの支持によって、民主カンプ チア側が国連の議席を維持し続けました。そのため、 カンプチア人民共和国には西側諸国からの開発援 助も入りませんでした。カンプチア人民共和国は、東 欧やベトナムなどの社会主義国からの乏しい援 助、NPO(民間非営利組織)からの支援などを もとに、国家再建に取り組んでいたのであります。

 

皆様もしカンボジアへ遊びにいらっしゃったら、カンボジア日本語ガイドブンキァンに任せて下さい。

 

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